よく「不定愁訴」と言われますが・・・
「不定愁訴」という言葉をお聞きになられたことがありますか。ウィキペディアによると、「不定愁訴(ふていしゅうそ)とは、「頭が重い」、「イライラする」、「疲労感が取れない」、「よく眠れない」などの、何となく体調が悪いという自覚症状を訴えるが、検査をしても原因となる病気が見つからない状態を指す。患者からの訴え(主訴)は強いが主観的で多岐にわたり、客観的所見に乏しいのが特徴。症状が安定しないため治療も難しく、周囲の理解も得られにくい。」と書かれています。
そのため的確な治療法がないと判断されがちで、「どうしようもない」とか「年のせい」とか言われ、改善することをあきらめられている方もおられます。しかしそうでしょうか?
まず、私は「不定愁訴」という言い方がおかしいと思っています。なぜならみなさまが、上記にあるようなある日は「頭が重い」、違う日には「イライラする」と異なる訴えであるならば不定愁訴と言われても仕方がないかもしれませんが、実際は多くの方が、「私は絶えず頭が重いことに困っている」とか「いつもイライラして困っている」というようにある一つの症状が困っていることを訴えられます。すなわち不定愁訴ならず「定愁訴」なのです。それを医療者が良く理解できないので「不定愁訴」という言い方でまとめてしまうことにすごく抵抗があります。絶えず「私はこれに困っているのです」と切実に訴えられるのにもかかわらず・・・。
西洋医学的に、血液検査をしたりレントゲンなどの画像検査などを実施した結果、異常が認められない場合に往々として「不定愁訴」という言葉で片付けられてしまいます。そして残念なことに「精神的な問題だ」と結論付けられ精神科や心療内科の受診を勧められることもあるようです。
しかし東洋医学的な見方をすれば、比較的簡単に状況を改善させることができる場合も多々経験します。その理由として、東洋医学には血液検査や画像検査などの検査方法は全くありませんから、その結果がどうであれ「関係ない」ということがあると思います。ただし、漢方薬を何も考えることなく処方するのではなく、2000年以上受け継がれてきた理論を元に五感を使った診断方法、例えば手首のところの「脈を触る」であるとか、「舌の状態を見る」とかすることにより身体の状態を推し測り処方を決めます。そこには職人技的なものを感じます。もっとも私の実力はお恥ずかしいことながらまだまだですが。選んだ漢方薬がうまく合えば、不定愁訴とされていた困った状況が比較的速やかに改善傾向を示すことも多々経験しています。
恐ろしや中国3000年の歴史です。