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「見えないもの」はないのでしょうか?(気・経絡)

[2024.03.26]

 漢方医学を語るには「気」という存在を忘れることはできません。私自身も漢方医学(東洋医学等)を勉強し応用している現在において、この「気」というものはあると信じています。たとえ進んでいる現代科学では捉えることができない存在でも。

 

 漢方医学では「気」が適切な量がスムーズにめぐっている身体を健全としています。この状態を我々は「元気である」ととらえています。「元々の本来あるべき気の状態」を「元気」というわけです。(このことは以前「日本語の不思議」というところで書かせていただきました。)

 

 先日鳥山明さんがお亡くなりになりましたが、代表作である「ドラゴンボール」に出てくる悟空が「かめはめ波」という必殺技で相手を吹き飛ばすのは「気」というものを使っているとされていますが、現実にもそのような技を使える方がいらっしゃるのをテレビで見たことがあります。それは決して演技ではなく事実だと私は考えています。誰にでもできることではなく、鍛錬や才能が必要だとは思いますが。

 

 一方西洋医学では、顕微鏡を使って小さなものまで目で見てとらえようとしています。ときには電子顕微鏡といわれるもので細胞一つ一つまで観察しようとします。それ以外にも様々な検出器などを使っていろいろなものの存在をとらえようとしています。それでも「気」というものは現在のところとらえることができません。ですが、日常臨床で患者さんとお話ししていますと、その訴えを理解するには「気」というものがあると想定することによって素直に解釈できる場面に多数遭遇します。一方もし「気」というものを否定してしまうと、全くわからないことになってしまいます。

 

 また気の流れている道を「経絡」といいますが、これまた「気」と同様にいまだその存在をとらえることはできていません。しかし、3か所ぐらい痛む場所があるという患者さんのその場所をよくよく観察しますと、一つの経絡といわれる道に沿って痛んでいる方にたくさんお会いします。そのような複数個所に一つの神経が通っていないこともあり、それらの痛みは別々の原因だと西洋医学では考えられてしまいがちです。が、経絡の走っているとされるところに照らし合わせると、まさしくその道だとわかるときもあります。

 

 なぜ痛みやしびれが発生するのでしょうか。漢方医学では「不通即痛・通則不痛」という考えがあります。「不通即痛」とは「通じなければ即ち痛む」ということで、気の巡り(気の巡りだけではなく「血」といわれるようなものなど、東洋医学で身体の中を巡っていると考えられるものすべて)が悪くなりスムーズに流れなければ「痛む」と考えられています。逆に「通則不痛」とは「通じていれば即ち痛まず」という意味です。

 

 ですから経絡(代表的な経絡は体に左右12本ずつあります)の言われる道のどこで気が滞っているか、詰まっているかで、痛む場所が決まります。3か所の通りの悪いところがあれば3か所痛むことになります。例えば「胆経」といわれる経絡は、側頭部、肩、躯幹の側面、下肢の外側から足背にかけて走っているとされていますので、側頭部痛、肩こり、下腿の外側が痛んでいる方がいらっしゃれば、「胆経」に問題があると判断できるわけです。西洋医学的には全く関係があるとは思えない場所で痛んでいるのですが。

 

 その胆経の巡りを何とかしてよくして差し上げることできれば、離れている複数個所の痛みであっても同時に改善させることができる可能性があります。その巡りをよくする方法は種々あります。それらを駆使して改善方向へむかっていただければと考え、うまくいけば痛みは短時間で解消されます。(ただその効果を持続させることに苦心することもあるのが現状です。)

 こういう経験をたくさんすることにより「気」「経絡」という存在があると信じて疑わなくなりました。目には見えない酸素や細菌が私たちの周りにあることが常識になっている現在のように、「気」というものがあるのが当たり前と言われる時代が来ることを楽しみに待ちたいと思います。でも私の命がある間には無理かなあ・・・。

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